和式四弦 レアエワル LE'A'EWALU 絹糸弦 鈴木慎一 Shinichi Suzuki







身近な話でいえば、顔のそっくりな親子や兄弟、親戚などというのは特に珍しいことではないでしょう。しかし果たして顔や背格好というハード面だけがコピーされ、体験や嗜好といったソフト面はコピーされないなどということがあるのでしょうか?

やはり先祖の顔だけでなく性格はじめ体験記憶等もデータ量としては微々たるものかもしれませんが末裔に伝達されることは誰も否定しきれないはずです。

たとえば澄み渡った空に浮かぶ壮大な富士山や満開の桜の花、雲ひとつない暗闇を照らす澄んだ満月を見たときに胸が熱くならない日本人はいないでしょう。ただ綺麗なだけでは得られない特殊な感触なのではないでしょうか。

それでは和食はどうでしょう。


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塩、味噌、醤油といった調味料や多くの食材は日本人の味覚、嗅覚、視覚、触覚、噛覚、聴覚を大いに刺激します。それこそ料理は最も人間の五感を刺激する対象でしょう。生きる以上、飢餓には人は耐えられません。飽食の現代日本では考えられませんが過去に日本では大飢饉が起こる度に多数の餓死者が出たり人肉を食べた事もあるようです。まさしく「食こそ生」だったでしょう。だからこそ「食/飢の記憶」はとことん我々のDNAに染み付いているのではないでしょうか。

DNAレベルでの共鳴はまさに単純な感動では得られない心底深みのある感動であります。これは音色だけではなく和歌のような文章でも同じような感動を与えてくれるでしょう。失礼を承知でいえば学校の授業で和歌に触れて酷い違和感を覚える人とそうでない人では先祖たちの文化観の違いが反映されているのかもしれないのかもしれません。お経でも同じことが言えるかもしれません。

伊勢神宮の境内で厳かな空気に触れたときにあなたは何を感じるのでしょうか。伊勢神宮のルーツを知らなくとも日本人ならきっと心穏やかになるはず、と明記することはそんなに乱暴なことではないと思います。身近な話でいえば、顔のそっくりな親子や兄弟、親戚などというのは特に珍しいことではないでしょう。しかし、果たして顔や背格好というハード面だけコピーされ体験や嗜好といったソフト面はコピーされないなんてことがあるのでしょうか?

やはり先祖の顔だけでなく性格はじめ体験記憶なりもデータ量としては微々たるものかもしれませんが末裔に伝達されることも否定しきれないはずです。たとえば澄み渡った空に浮かぶ壮大な富士山や満開の桜の花を見たときに胸が熱くならない日本人はいないでしょう。ただ綺麗なだけでは得られない感動ではないでしょうか。それこそ和食はどうでしょうか。味噌、醤油といった調味料や様々な食材は我々の味覚、嗅覚、視覚、触覚、噛覚、聴覚を大いに刺激します。それこそ料理は最も人間の五感を刺激する対象でしょう。飢餓には人は耐えられません。まさに「食の記憶」はとことん我々のDNAに染み付いているのではないでしょうか。

DNAレベルでの共鳴はまさに単純な感動では得られない心底、深みのある感動であります。これは音色だけではなく和歌のような文章でも同じような感動を与えてくれるでしょう。失礼を承知でいえば学校の授業で和歌に触れて違和感を覚える人、そうでない人は先祖たちの文化観が反映されているのかもしれないですね。

三重・伊勢神宮の境内で厳かな空気に触れたときにあなたはどう感じるのでしょうか。伊勢神宮のルーツを知らなくとも日本人ならきっと心穏やかになるはず、と明記するのは乱暴なことではないと思います。



1万年前から外容がほぼ変わらないとされる富士山にしても、有史以前から存在する桜にしても日本人にとっては常に身近な存在だったはずです。

全国津々浦々で何々富士という名前を持つ山々や富士見という地名があちこちにあるのは何故でしょうか。今のように空気に淀みなく背の高い建物が無かった頃は間違いなく富士山を眺めていた我々の祖先は間違いなく畏敬、愛着といった感情を我々以上に日常的に感じていたに違いありません。外国人の受ける感動とは間違いなく次元が違う大きく、かつ深みのある感動でしょう。

逆にいえばヨーロッパの原風景において日本人が受ける感動よりも現地人の受ける感動においても同様なことがいえるのではないでしょうか。環境と記憶の刺激によりDNA の共鳴が起きるとき体細胞の根本からの劇的な感動が発生するわけです。

桜の花にしても、厳しい冬を乗り越えて春の訪れを教えてくれる存在であり、今のように時計や暦がない太古の時代でも桜を通じて人々は1年の流れを感じていたのではないのでしょうか。

桜を愛でることが長い厳しい冬を乗り越えた先に有る慶びの象徴であれば、その感動の記憶が綿々と子孫に受け継がれていくとしても何ら否定できるものではないでしょう。特に短命だった人類にとって1日という時間は長命な現代人に比べて、とんでもなく貴重で感動的なものだったと思えてなりません。




乱暴かもしれませんが、この仮説に従えば自らの経験が無くとも自己のDNA に潜んでいる祖先たちの記憶といった蓄積データが様々な外的刺激により同調を起こしたときヒトには単純な感動ではなく無上之感動が起こるはずです。

それ以上に自分の身体の隅々まで構成している細胞はまさに先祖からのDNAの継承そのものです。たとえ肉親と死に別れ、生き別れたとしても自分の身体がある限り、両親はじめ数え切れないほどの先祖とは離れ離れではありません。あなたの身体はまさに其々の先祖全ての生存の証拠そのものだからです。親を失って淋しい時にはぜひ、自分の身体に触れてみてください。細胞の深い部分であなたはけして孤独ではないことに気付くことでしょう。

無意識下における音色記憶との照合という作業においては単純なデータである澄んだ音色の方が複雑なデータとなる濁った音色よりも一早く共鳴するのは間違いないでしょう。なぜならばデータ照合は分析対象データが単純な方が処理速度が短く、かつ精度が高くなることは言うまでもないからです。

この理論を前提に「無上之音色」を手に入れるために祖先たちの経験してきたであろう和弦樂器の歴史を調べてみました。